
● 1984/01/25[1984/01/15]
『
あとがき 書かでもの記
自作について語るのは蛇足であり、多くの場合、自己弁護に堕するので、私はむかしから作品集のあとがきめいたものも、出来るだけ書かないようにしている。
作品にはそれぞれの運命があり、幸不幸にかかわらず作品自体がそれを背負ってゆくしかないからである。
ただ「茜いろの坂」は、初め完結を予期しておらず、どこかで中断しなければならないと覚悟していたものなので、思いがけなく最後まで書き終えることのできたいま、少しばかり、そのあいだの事情に触れておこうと思う。
昨夏、私は主治医から、あと半年のいのちだと宣告された、
15年余の糖尿病が悪化して、その前の暮れに脳内出血で倒れて、そのまま救急病院で3カ月を送り、退院してからも、外出もままらない身であったから、思いもよらない宣告ではなかった。
しかし、衝撃ではなかったなどと言えば嘘になる。
私の小さな一生がいま終わろうとしていると知らされて、必然的に私は自分の生きてきた姿を振り返ってみないではいられなかった。
そうして、残された半年をかけて、遺書のつもりで最後の作品を書こうと思った。
小説を書いて暮らすようになってから、四十余年になるが、私のような非才な者が、それほど長い間、曲りなりにも小説を書き続けて来られたのは、不思議というほかはない。
ただひとつわかっていることは、それは友人知己をはじめ、数多くの編集者、さらに多くの未知の読者があったからこそ、今日まで生きて来られたという実感であった。
私はこれらの人々に別れの挨拶を述べたいと思ったのである。
この作品の主題は、若いときから、私の頭の中にあった。
しかし、こういう問題を考えるのは、やはり若いうちは無理で、とくに、小説に即して言えば、秋山の精神的救済の契機となる、売女にして聖女である女性像を描く自信がなかった(いまでも、描けたという自信はない。そうして、香西節子が描けていなければ、この作は失敗作ということになる)。
そのことのほかに、もう一つ筆の渋る点があった。
作品の性質上、主人公はどうしても余命いくばくもなく、しかもそれを承知している人物として、設定しなければならない。
私の場合のように、医者が本人に余命を知らせるという例は、少ないかもしれないが、世間には余命を自覚しながら、病臥している人はあるだろうし、自分はあといくらも生きられないのではないかと、疑心暗鬼に悩まされながら、病を養っている人も、少なからずあるに違いない。
もし、そういう人びとの眼に触れた場合、私の言いたいことはほかにあるのだとしても、心に無用の波を立たせることも、ないとは言えなかった。
しかし、私自身が腎不全と心臓衰弱で、半年後には尿毒症で死ぬ、とわかった以上、余命がないという設定にかんする限り、モデルは私自身でいい。
私も、もう六十歳を半ば過ぎた。
この種の主題も、どこから手をつけていいかわからない年ではない。
私は中断覚悟で、とにかく筆をつけてみようと思い立った。
初め、連載は昨年の元旦から始める約束になっていて、作品も別なものを容易していた。
ところが三月の初めまで、救急病院にいなければならなかったので、急遽、予定を変更してもらって、十月中旬から連載を始めることになった。
半年のいのちとすれば多分、私は年末までは生きているだろう。
しかし、それでは連載が始まって、やっと二ヶ月である。
これまで私は、連載が始まるとき、十回ぐらいの書き溜めがあればせいぜいであったが、こん度ばかりは、夏のうちから書き溜めをしていった。
自分では掲載が始まるまでには、あらかた書き終えたいほどのつもりであった。
しかし、ストーリーに起伏のある小説ではないし、親鸞の「歎異抄」のなかの言葉にしても、自己流の受け止め方だから、書いている途中であれこれ迷ったりして、筆は思うようには進まなかった。
加えて、近年の私は眼底出血で視力がほとんどない。
資料や参考書を参照するのにも、少し活字が小さいと、拡大鏡を使っても読みとれない。
原稿もペンではかけない。
ペン字は細くて、自分で書いた字も読めないから、やむえず和紙の原稿用紙を作って、毛筆で書く。
不便で、非能率的なことおびただしいのだが、どうにも仕様がない。
昨夏、私は主治医から、あと半年のいのちだと宣告された、
15年余の糖尿病が悪化して、その前の暮れに脳内出血で倒れて、そのまま救急病院で3カ月を送り、退院してからも、外出もままらない身であったから、思いもよらない宣告ではなかった。
しかし、衝撃ではなかったなどと言えば嘘になる。
私の小さな一生がいま終わろうとしていると知らされて、必然的に私は自分の生きてきた姿を振り返ってみないではいられなかった。
そうして、残された半年をかけて、遺書のつもりで最後の作品を書こうと思った。
小説を書いて暮らすようになってから、四十余年になるが、私のような非才な者が、それほど長い間、曲りなりにも小説を書き続けて来られたのは、不思議というほかはない。
ただひとつわかっていることは、それは友人知己をはじめ、数多くの編集者、さらに多くの未知の読者があったからこそ、今日まで生きて来られたという実感であった。
私はこれらの人々に別れの挨拶を述べたいと思ったのである。
この作品の主題は、若いときから、私の頭の中にあった。
しかし、こういう問題を考えるのは、やはり若いうちは無理で、とくに、小説に即して言えば、秋山の精神的救済の契機となる、売女にして聖女である女性像を描く自信がなかった(いまでも、描けたという自信はない。そうして、香西節子が描けていなければ、この作は失敗作ということになる)。
そのことのほかに、もう一つ筆の渋る点があった。
作品の性質上、主人公はどうしても余命いくばくもなく、しかもそれを承知している人物として、設定しなければならない。
私の場合のように、医者が本人に余命を知らせるという例は、少ないかもしれないが、世間には余命を自覚しながら、病臥している人はあるだろうし、自分はあといくらも生きられないのではないかと、疑心暗鬼に悩まされながら、病を養っている人も、少なからずあるに違いない。
もし、そういう人びとの眼に触れた場合、私の言いたいことはほかにあるのだとしても、心に無用の波を立たせることも、ないとは言えなかった。
しかし、私自身が腎不全と心臓衰弱で、半年後には尿毒症で死ぬ、とわかった以上、余命がないという設定にかんする限り、モデルは私自身でいい。
私も、もう六十歳を半ば過ぎた。
この種の主題も、どこから手をつけていいかわからない年ではない。
私は中断覚悟で、とにかく筆をつけてみようと思い立った。
初め、連載は昨年の元旦から始める約束になっていて、作品も別なものを容易していた。
ところが三月の初めまで、救急病院にいなければならなかったので、急遽、予定を変更してもらって、十月中旬から連載を始めることになった。
半年のいのちとすれば多分、私は年末までは生きているだろう。
しかし、それでは連載が始まって、やっと二ヶ月である。
これまで私は、連載が始まるとき、十回ぐらいの書き溜めがあればせいぜいであったが、こん度ばかりは、夏のうちから書き溜めをしていった。
自分では掲載が始まるまでには、あらかた書き終えたいほどのつもりであった。
しかし、ストーリーに起伏のある小説ではないし、親鸞の「歎異抄」のなかの言葉にしても、自己流の受け止め方だから、書いている途中であれこれ迷ったりして、筆は思うようには進まなかった。
加えて、近年の私は眼底出血で視力がほとんどない。
資料や参考書を参照するのにも、少し活字が小さいと、拡大鏡を使っても読みとれない。
原稿もペンではかけない。
ペン字は細くて、自分で書いた字も読めないから、やむえず和紙の原稿用紙を作って、毛筆で書く。
不便で、非能率的なことおびただしいのだが、どうにも仕様がない。
6月中旬から9月の中旬までは、主治医の指示に従って、慶応病院へ入院したが、入院しても原稿は書き継いでゆくつもりであった。
貴重な三ヶ月を空費するわけにはいかなかった。
しかし、いざ入院してみると、毎日ひっきりなしに各種の検査があり、医者や看護婦さんたちの出入りも激しいので、気持ちが落ちつかない。
そのうえ、厳格な食餌療法である。
糖尿病なので糖分禁止、肝臓病なので塩分禁止、水分は一日800グラム以内、カロリーは1200と限定された。
私は食べ物の味には、わりにうるさい方だし、旧制中学から大学時代にかけて、剣道の選手をしていたくらいで、身長は1メートル85、体重は76キロの大柄の軀のうえに、食い物の量も多かったから、この食餌療法には閉口した。
入院して一ヶ月もしないうちに、体重は68キロに落ち、深い脱力感で、身動きするのにも努力がいった。
まして執筆など、思いもよらない状態で、それまで書きためた原稿に手を加えるのがやっとであった。
それでも、いよいよ秋になって、掲載が始まるというとき、どうにか私は120回書き溜めることができた。
120回もの余裕をもって連載に入るなどというのは、私としては前代未聞であったけれど、私に残された時間は、掲載が始まった十月中旬から、あと二ヶ月あまりしかなくなっていた。
死の前のひと月くらいは、筆を執れなくなることも、考えておかねばならなかった。
どうみても、時間が足りなかった。
十中八九、完結する見込みはなかった。
私の生まれた日は3月31日である。
当然、今年の花などは見られないと思っていた。
しかし、そのときが来ても、私は死ななかった。
庭の梅や染井吉野の花も、見ることができた。
といっても、眼が駄目なので、小枝を切ってきてもらって、花びらを眼にあてがうようにして、ようやく花とわかるのが関の山であったが。
そのうちに、ニタ月か三ツ月間隔でやってくる眼の血曇りが始まった。
これは眼底出血の古血が、瞳孔に拡散する現象で、これが始まると、眼に鉄錆色の霧のような膜がかかり、毛糸の屑に似た古血が、一面に遊泳して、わずかに右眼に残った0.3の視力も消えてしまう。
起こり始めのころは、一週間か、長くて二週間もすれば、自然に曇りが引いたものであったが、このごろは滞在期間が長くなって、ひと月もそれ以上もはれない。
あと半年と言われた期限は過ぎたのだから、計算上はいつ最期のときが訪れても、不思議はないので、原稿は急ぐうえにも急ぐ必要があったが、気ばかりあせっても、毛筆の字すら見えなくなっては、どうしようもなかった。
そのうちに、私も少しずつ落ち着きを取り戻した。
生きているうちの、どうしても書き上げねばならないと、肩肘張った気張り方をするのは不自然であるし、そんな必要はないのだ、と思えてきた。
死は誰の上にも必ず訪れるのだから、医師の宣告にこだわらる必要もない。
人は死ぬまで生きているのである。
思い煩うことはない。
書けるあいだは書き、書けなくなったら筆をおく。
気張らずに自然な姿勢でいることだ。
無理に書き上げる必要はない-----。
そう思うと、いくらか気持ちが楽になった。
血曇りがはれるまでは、足掻いてもても始まらないと、自分をなだめすかして、思い切って執筆を中止した。
それから先は、格別急ぐこともなく、ほぼ自分の自然なペースに、まかせることができた。
とはいうものの、いつもと違ったそんな事情のなかで、書きすすめてきたので、最後の一行を書き、<完>と終止符を打ったとき、私は机に向かったまま茫然とした。
貴重な三ヶ月を空費するわけにはいかなかった。
しかし、いざ入院してみると、毎日ひっきりなしに各種の検査があり、医者や看護婦さんたちの出入りも激しいので、気持ちが落ちつかない。
そのうえ、厳格な食餌療法である。
糖尿病なので糖分禁止、肝臓病なので塩分禁止、水分は一日800グラム以内、カロリーは1200と限定された。
私は食べ物の味には、わりにうるさい方だし、旧制中学から大学時代にかけて、剣道の選手をしていたくらいで、身長は1メートル85、体重は76キロの大柄の軀のうえに、食い物の量も多かったから、この食餌療法には閉口した。
入院して一ヶ月もしないうちに、体重は68キロに落ち、深い脱力感で、身動きするのにも努力がいった。
まして執筆など、思いもよらない状態で、それまで書きためた原稿に手を加えるのがやっとであった。
それでも、いよいよ秋になって、掲載が始まるというとき、どうにか私は120回書き溜めることができた。
120回もの余裕をもって連載に入るなどというのは、私としては前代未聞であったけれど、私に残された時間は、掲載が始まった十月中旬から、あと二ヶ月あまりしかなくなっていた。
死の前のひと月くらいは、筆を執れなくなることも、考えておかねばならなかった。
どうみても、時間が足りなかった。
十中八九、完結する見込みはなかった。
私の生まれた日は3月31日である。
当然、今年の花などは見られないと思っていた。
しかし、そのときが来ても、私は死ななかった。
庭の梅や染井吉野の花も、見ることができた。
といっても、眼が駄目なので、小枝を切ってきてもらって、花びらを眼にあてがうようにして、ようやく花とわかるのが関の山であったが。
そのうちに、ニタ月か三ツ月間隔でやってくる眼の血曇りが始まった。
これは眼底出血の古血が、瞳孔に拡散する現象で、これが始まると、眼に鉄錆色の霧のような膜がかかり、毛糸の屑に似た古血が、一面に遊泳して、わずかに右眼に残った0.3の視力も消えてしまう。
起こり始めのころは、一週間か、長くて二週間もすれば、自然に曇りが引いたものであったが、このごろは滞在期間が長くなって、ひと月もそれ以上もはれない。
あと半年と言われた期限は過ぎたのだから、計算上はいつ最期のときが訪れても、不思議はないので、原稿は急ぐうえにも急ぐ必要があったが、気ばかりあせっても、毛筆の字すら見えなくなっては、どうしようもなかった。
そのうちに、私も少しずつ落ち着きを取り戻した。
生きているうちの、どうしても書き上げねばならないと、肩肘張った気張り方をするのは不自然であるし、そんな必要はないのだ、と思えてきた。
死は誰の上にも必ず訪れるのだから、医師の宣告にこだわらる必要もない。
人は死ぬまで生きているのである。
思い煩うことはない。
書けるあいだは書き、書けなくなったら筆をおく。
気張らずに自然な姿勢でいることだ。
無理に書き上げる必要はない-----。
そう思うと、いくらか気持ちが楽になった。
血曇りがはれるまでは、足掻いてもても始まらないと、自分をなだめすかして、思い切って執筆を中止した。
それから先は、格別急ぐこともなく、ほぼ自分の自然なペースに、まかせることができた。
とはいうものの、いつもと違ったそんな事情のなかで、書きすすめてきたので、最後の一行を書き、<完>と終止符を打ったとき、私は机に向かったまま茫然とした。
予期していた安堵感や、よろこびの感情は、あるにはあったが、それは遠い潮騒のようでしかなかった。
書き終えたことが、ただ不思議であった。
新聞の連載が終わると、体力も気力も衰え、しばらく虚脱感がつきまとうのは、いつものことであるが、こん度は、それさえもはっきりとは意識に来ない。
私の体重は慶応病院退院時より12キロ落ちて、いま56キロ。
洋服はどれも借り着にようになっているから、体力の衰えが意識できないはずはないのだ。
しかし、そんなことより、いまは、「命とは不思議なものだ」、という思いばかりが強い。
原稿を書き終えたのに、自分はまだ生きている。
自然の摂理は、はかり知れない。
新聞の連載としては、地味で陰気臭い小説なので、その点では読者に気の毒だと思っていたが、思いがけない反響があって、お手紙もかなり頂戴したのは、望外のことであった。
私の病気をご存知のはずもない未知の方々から、作中人物の死病に擬して、私の健康を御憂慮くださるお便りも何通か拝見した。
まことに身に余ることで、感謝に堪えない。
私のようなものが、長年ものを書いて生きてこられたのも、なかば、多くの眼にはみえないこういう厚意や関心に支えられていたからだと、いまさらながら思いを深くしないではいられない。
そういう意味では、作家とは幸せな人間である。
振り返ってみて、ものを書いてきた歳月の長さにくらべて、わたしの仕事は言うに足りないものではあった。
おそらく最後の作品になるはずの『茜いろの坂』にしても、四十年余もかかった揚げ句、いま終わりに臨んで、私はこんなことを考えていますと、読者に報告するだけの、貧しい挨拶でしかない。
まことに忸怩たる思いである。
若いころ、私の周囲にだけでも、私などの遠く及ばない有為の才能が、数多くあった。
十五年にわたる長い戦争が、その間にあったにしても、いまはそのほとんどがいなくなってしまっている。
その中で私が今日まで生きながらえて、貧しいなりにものを書いてきたのは、自分ながら信じられない思いである。
しかし、それも自然の摂理ではあるのであろう。
<<略>>
書き終えたことが、ただ不思議であった。
新聞の連載が終わると、体力も気力も衰え、しばらく虚脱感がつきまとうのは、いつものことであるが、こん度は、それさえもはっきりとは意識に来ない。
私の体重は慶応病院退院時より12キロ落ちて、いま56キロ。
洋服はどれも借り着にようになっているから、体力の衰えが意識できないはずはないのだ。
しかし、そんなことより、いまは、「命とは不思議なものだ」、という思いばかりが強い。
原稿を書き終えたのに、自分はまだ生きている。
自然の摂理は、はかり知れない。
新聞の連載としては、地味で陰気臭い小説なので、その点では読者に気の毒だと思っていたが、思いがけない反響があって、お手紙もかなり頂戴したのは、望外のことであった。
私の病気をご存知のはずもない未知の方々から、作中人物の死病に擬して、私の健康を御憂慮くださるお便りも何通か拝見した。
まことに身に余ることで、感謝に堪えない。
私のようなものが、長年ものを書いて生きてこられたのも、なかば、多くの眼にはみえないこういう厚意や関心に支えられていたからだと、いまさらながら思いを深くしないではいられない。
そういう意味では、作家とは幸せな人間である。
振り返ってみて、ものを書いてきた歳月の長さにくらべて、わたしの仕事は言うに足りないものではあった。
おそらく最後の作品になるはずの『茜いろの坂』にしても、四十年余もかかった揚げ句、いま終わりに臨んで、私はこんなことを考えていますと、読者に報告するだけの、貧しい挨拶でしかない。
まことに忸怩たる思いである。
若いころ、私の周囲にだけでも、私などの遠く及ばない有為の才能が、数多くあった。
十五年にわたる長い戦争が、その間にあったにしても、いまはそのほとんどがいなくなってしまっている。
その中で私が今日まで生きながらえて、貧しいなりにものを書いてきたのは、自分ながら信じられない思いである。
しかし、それも自然の摂理ではあるのであろう。
<<略>>
未完で終わるはずだった『茜いろの坂』は、どうにか完結することができたが、私はまだ生きてだけはいる。
人間の生命というものは、必ずしも医者の判断通りにはいかないもののようである。
しかし、いずれにしても、いち度は死期を告げられた身であってみれば、残りの時間の長かろうはずはないし、現在の軀の状態では、すくなくともまとまった作品は、やはりこれをもって最後としなければなるまい。
長いあいだ、ほんとうに有難うございましたと、心から御礼を申し上げて、筆を擱くことにする。
昭和55年6月初
』
人間の生命というものは、必ずしも医者の判断通りにはいかないもののようである。
しかし、いずれにしても、いち度は死期を告げられた身であってみれば、残りの時間の長かろうはずはないし、現在の軀の状態では、すくなくともまとまった作品は、やはりこれをもって最後としなければなるまい。
長いあいだ、ほんとうに有難うございましたと、心から御礼を申し上げて、筆を擱くことにする。
昭和55年6月初
』